メガリューブログ~メガりゅうの日常~

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貧困問題について

私は、貧困問題の解決には否定的である。日本は今日貧困や紛争問題に十分すぎるほど関わっており、自衛隊の方々をはじめ各方面で実践をおさめてきた。しかし、「貧困はなぜ起こるのか、その要因は何か」「なぜ日本は支援を行っているのか」十分に考えた機会は少ないのではないか。日本だと、「難民支援を行う=優しい人」「難民支援に否定的な人=心ない人」というイメージがあまりに強すぎる。支援をどこに行うのかで紛争の要因をつくりだしている事実などを無視し、「人道的」という曖昧な言葉のもとで経済支援を行うことに意義はあるのだろうか。「貧困」という概念を理解してから途上国にとって有効な支援・経済開発を行っていく必要があると、私は考えている。このような点で今回の課題文を読むことは意義深いことであろう。ここでは私がなぜ貧困問題に否定的なのか、その理由を課題文に照らし合わせながら考えてみよう。   第一に、「貧しい」というのは人間の感情であり、これを他人が変えることはできない。すなわち課題文の「貧困は相対的」という意見に賛成である。「となりの家の芝は青い」という言葉があるように、少し豊かになっても、もっと豊かな人を見れば「自分は貧乏だ…」と考えてしまう。もっとも、ほぼ例外なく現在の先進国は「途上国」の状態から頑張って先進国化したのである。途上国も支援を待つだけでなく、自分たちで発展する努力をするべきである。   第二に、本当に支援をする必要があるのかどうか、ということである。「途上国支援」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、NPO赤十字社が発行している悲しそうな目をしている子供が載っているポスターであろう。しかしそれらは途上国の人が作ったのではなく、先進国のプロフェッショナルな人々が多くの人を同情させようとして「技術力」を使って製作したものである。途上国の子ども達は、「このような顔や発言をしたら向こうは喜ぶだろう」と考えてあえてやっている場合も少なくない。途上国の子ども達は先進国の子ども達よりずっと大人なのである。途上国の人々を単に「かわいそうな人々」とみなし支援物資をおくるのではなく、課題文で述べているように現地の人々にある良さ(資源や文化)を尊重し、それにマッチさせながら発展方法を考えていくことが大切だと思う。話は少しそれるが、日本では自然災害が頻発している。その際、多くの人が募金や物資の支援を行うと思う。これは先日私が聞いた話だが、「千羽鶴や古着は被災地に送るとむしろ現場を大きく混乱させる」そうだ。こちらが親切心でやっても向こうには「余計な御世話」とみなされてしまうことが少なくない。国内でもこのようなことが起こっているのだから、日本と文化・慣習が全く異なる外国ならなおさらだ。繰り返すが、現地にも文化・慣習がありそれを無視して学校をつくったり、交通を整備しても逆効果となってしまう。特に政府が途上国支援を行う大抵の理由は現地での利権を得ることである(独裁国家の中国がアフリカに大量の支援を行っているのがいい例である。)。「途上国支援」が一体何なのか、改めて考え直す必要がある。   第三の理由は、貧困が起こっている要因は何なのか、ということである。私は、宗教・国家対立と、帝国主義時代の植民地化政策の2点であると考えている。宗教・国家対立はあまりに複雑なのでここでは割愛する。ここで問題としたいのは帝国主義時代の植民地化政策である。「大植民地帝国」をつくりだしたのは、主にイギリスやフランスである。英仏両国はアフリカや中東に線引きを行い、今日の民族紛争の大きな要因をつくりだした。「資本主義が発達していない」という話が課題文にあったが、この大きな要因は帝国主義政策や奴隷貿易である。これらに対して両国はほとんど謝罪を行っていない。一方の日本はというと、大陸進出で一見マイナスのイメージが強いが、日本が朝鮮で行っていたのはほとんどの時期で「文化政治」である。このおかげで朝鮮は近代化し、戦後には人口が倍になった。(アジアニーズという言葉があるが、それらの地域は皆列強に支配されていた箇所ばかりである。)日本は韓国に対してイマイチ根拠のない慰安婦問題を謝罪したのに対し、英仏は謝罪をしない、これは極めて不公平なことである。確かに帝国主義時代に植民地を支配するのは当然の権利ではあるが、現地の経済体制を崩壊させたことに対する罪は償うべきである。日本は難民の受け入れよりももっと他で活躍していけば良いのではないだろうか。   「貧困」、これは現在の資本主義体制ではやむを得ないものである。あるからこそ世界が成り立つのである。もしトロツキーの世界革命が成功していたらどうなっていただろうか。先進諸国がまずなすべきことは、途上国の個性や「個別的具体性」を理解することである。支援しすぎも良くない。結局のところ「よそはよそうちはうち」なのである。